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彼等は金属に近いもので出来ていて、操縦する者の思い通りに動き、形や色を変えることが出来、自らの存在を辺りに同化させて消すことも出来ると言われている。そのうえ空間を瞬時に移動する能力すら持ち合わせているようだ。こういった解釈がその存在たちに与えられている目撃談に基づいた一般的な認識らしい。
あるとき、ぼくは彼等について自分なりの考察を加えてみたくなった。勝手に想像してみる自由を味わいたくなったのだ。肯定的に捉えたうえで、よりファンタジックに、そして幻想的に仕上げてみることを思い立った。最初にやろうとしたことは、彼等を目撃した際の現実感を伴った写真のような表現だったのだが、実際に始めてみると、すぐにその自由度は止めどもなく広がってしまった。その結果が現実感からどれほどかけ離れてしまったのかは、見た人の個人的な解釈に委ねるしかないのだが、超合金風のいかにもといったものに始まり、石で出来ているもの。古めかしい鉄の塊で出来たノスタルジックなもの。植物を欲するものや、砂や岩を欲するもの。さらに飛躍させて、水をこよなく愛するものがいてもいいように思えた。芸術的な存在や警鐘的な存在すらも考え、古代生物や遺伝子を思わせる存在に至っては、さすがに行き過ぎてしまったのかもしれないが、そもそも、誰もそれを否定はできないだろうと思うと、やはりそれも見てみたくなった。生物でありながら乗り物としての機能を備えた星間旅行が可能な飛行体が、この広い宇宙に存在しているという可能性は少ないのかもしれないが、同じように存在しないという証拠もないのだと開き直ってみると、妙な自信を取り戻すことができた。
そうやって思いつくままにその存在の可能性を広げていくうちに、遠い昔、空に何かを浮かべてみた最も古い記憶が蘇ってきた。ぐいぐいと引っぱられる風の重さを、華奢な手がしっかりと掴んでいた感覚だけが鮮烈に思い出されたのだ。その幼い日からぼくは空に何かを浮遊させることで、自分のなかのもどかしい部分の表現を繰り返してきたのかもしれない。今でも、ぼくは無意識に空を見上げていることに気付いた。家を出ては先ず空を仰ぎ、オフィスを出ては夜空を見上げ、休日には富士山を望む窓からその夕暮れの空を楽しむ。旅行をすれば一日中窓から流れゆく空を見ていても飽きることがない。実際にそこで見たものは、星座の間をぬってゆっくりと飛ぶ白い星や、雨上がりの空を水平に突き進む黒い球や、最速のジェットよりも遥かに速い赤い光などで、彼等を見た後には、何かを空に浮遊させては、そのもどかしさを取り戻そうと試みることになってしまう。空をギャラリーに見立てては、無意識に考えついたオブジェをその空間に展示することで、そのもどかしさから解放されたいと思うのだ。たぶん知らずにこれらの表現手段は熟成され、結果としてこの表現は生まれてしまったのだろう。
いまこの時にも、地球上のあらゆる空間に出現を繰り返している未知の飛行体の数々は、残念ながら、ぼくたちを困惑させるに十分な不明瞭さしか持ち合わせてはいないわけで、彼等の地球環境に合わせた精一杯の接触方法の結果がそうだとしたら、そもそも、非常に個人的な範囲でしか確認できない運命にあるものでしかなく、これらの表現の結果はさほど的を外れたことではないように思うのだが。
1996年5月 田島照久
最近は YOU TUBE などにたくさんのUFOの映像があげられていますが、20年くらい前につくったこのシリーズになかに、同じようなものがあって驚くことがあります。しかし、そもそも人間が考え得るものはこの広い宇宙のどこかには存在しているらしいので不思議なことでもないということで、この先もせっせとこんな物体を創って行こうと思ってます。(2015年追記)